遥かなる君の声
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     〜なんちゃってファンタジー“鳥籠の少年”続編
 


   
炎獄の章




          




 森と林の違いは、自然のままに樹が密生している群生であるか、人の手で植樹された、若しくは整備・管理されているものであるか、だそうで。その区別で言うなら十分“森”のようにも見えるような、結構な密集と人の気配が感じられない静謐な風情とを湛
たたえし常緑の木々の中。お初の約二人には戸惑うばかりの場所だったが、物慣れた足取りの連れの後を追うようにして歩むと、10分もかからぬうちに不意に視野が開けて来た。辺りの木が葉の落ちた白樺ばかりになったからで、やがて意外なほど拓けた場所に出る。頭上にはまだ少し冬の素っ気なさが滲む、それでも雲ひとつなく晴れた青い空。水平線が見えるほどという規模ではないながら、冷たそうな澄んだ水を湛えた広い湖があって。少し遠い畔ほとりには、今はまだ裸の大きな柳が、ここからだと糸のように見える枝を何本か、時折風にそよがせながらも湖面へと垂れさせている。林の中にうっすらと見え始めていた道らしいものが、ここまで来ると乾いた土のそれになっていて、左右には冬枯れの草っ原が続いていたものが、ちょっとした畑のような土地や家も見えて来て。村と呼べるほどもの規模ではないながら、それでも一応の“集落”ではあるらしき家々の集まりし、広場には人の影も幾たりか。
「あれ、ヨウイチじゃないか。」
「久し振りだねぇ。」
「さては路銀が尽きたかい?」
 水飲み場を兼ねたものだろう、石作りの小さな噴水の周囲に腰を下ろして、煙管を咥えて一休みしていたらしき人たちの姿が見えて来て。ここいらの普段着なのだろう、道着のような前合わせの上っぱりと裾のすぼまった筒袴という恰好のおばさんたちが、いかにも気安い声をかけて来るのへ、
「ああ、そんなもんだ。」
 だから残念ながら土産はないぜなんて、けけけっと笑いつつ少々蓮っ葉なお返事を気さくに返す彼なのが。何だか意外なような、いやいや、王城のお城でもこんな態度ではあったかなと。そのお師匠様のお背
せなでなびいている たっぷりとしたマントの陰に引っついたままで、瀬那がちょっぴりどぎまぎし。彼ほどの年頃の存在は此処でもさして珍しくはないが、覚束無い様子の愛らしさがまた、おばさまたちからの好奇の視線を集めかかったそんな間合いへ、
「あ、蛭魔じゃないか。桜庭くんも、お帰り〜〜〜。」
 行く手からの声がかかって、一行の注意が一気にそちらへ攫われる。古いものだろう、ところどころの縁が欠けた、馬の蹄鉄のような曲線形のこちらも石作りの大きな門が、冬場だからか形だけというみすぼらしさの生け垣の途中に嵌まって立ってるその向こう。そちらも小山のように丸々とした体格の男が、それはにこやかな笑顔にて、やって来たご一行を迎え入れる。
「クリタ、師範はどうした。」
「父さんはまだ“お籠もり”から戻ってないよ。」
「だ〜〜〜っ、もうっ! あれほど念を押しといたのによっ。」
「だ、大丈夫だよ。預かってたものはちゃんと封咒を守ったまんまで保管してある。」
 いきり立ちかかった黒魔導師様を、少々恐れつつも“どうどう…”と宥める口調には物慣れた感じがして。
“一体どなただろうか?”
 鋭角的で凄みさえあるお顔やその全身から、そりゃあ判りやすくも揮発性の高いオーラを出してた蛭魔を、さして恐れ入ることなく諌
いさめることが出来るなんてと、小首を傾げているセナへは、すぐ後ろに立っていた桜庭がこっそりと耳打ちで教えてくれた。
「あれは僕らの師匠の息子さんだよ?」
 その筋では有名ではあるけれど、少数精鋭主義でそんなに大きな規模の庵房ではないのだそうで。食事の支度や掃除に洗濯などという身の回りの雑務は、預かっている修行中の子供らと門弟とだけで十分に手が足りてはいるものの、
「師範がご自身の修行や節季の勤行のための禊
みそぎなどなどに入ると、咒のお勉強の監督役にって全権を任されるほど、結構優秀な導師さんなんだよ?」
 身内の誉れのようにそうと続けたのへ、
「お若いのに凄い人なんですねぇ。」
 あっさり感心してしまうセナもセナだが、
「桜庭くんも久し振りだねぇ〜vv」
 こちらへ愛想を向けて来たクリタが、その同行者たちに今頃気がついたらしく、
「こちらのお二人はどなた?」
「ああ、こ…」
「桜庭の隠し子と、その養い親だ。」
 とんでもないことをペロッと言う蛭魔も蛭魔であり。そして、
「え〜〜〜〜っ! こんな大きい子がいたの〜〜〜っ!」
 間髪入れずという勢いで、巨漢の青年が真剣に驚いたのを見て、
「…信じるか、普通?」
 しかもこんな速攻で…と、セナの養い親にされた葉柱が思わず目許を眇め、
「あれれぇ? でもでも、桜庭さんて見た目のまんまのお年じゃなかったはずでは?」
「…セナくん、結構落ち着いて来たね。」
 一歩先ゆく見解をポロリとこぼした王子様へは、判りにくいが もしかしたら…彼なりに怒っているのかも知れない、元・魔王の白魔導師の桜庭さんが、そんな一言を捧げて下さった此処こそは。彼ら二人が修行したという、アケメネイの麓の“泥門”という村である。





            ◇



 正確には、泥門の村のそのまた外れ。すぐ周囲には人の住まう家もないよな環境下であり、そのまま外側へ…彼らがやって来た方向へと戻ってゆけば、林の向こうにアケメネイの山々へと連なる荒野へと出るのだそうで。
『得るものは得たが、王城へ戻る前に。』
 ちょっと寄ってくぞと蛭魔はそれだけしか告げず。だが、
「………はい、これ。」
 大小幾つかの建物がある中、庵房中央の母屋の居間に通された一行へ、クリタは肉厚な手をパンと叩いて見せる。すると、何もなかった宙にふわんと浮いて出現したのが、
「…お。」
「グロックス…。」
 今や、この事態の起爆装置だとの認識も高まりし、双焔紋
フレイム・タナトスの浮いた大きめの砂時計。彼らの手荷物の中にはなかったものだが、さりとて、彼らが出掛けることから咒に対しての守りが微妙な状態と化す城にも残してはおけず。どうするのかなと案じていると、
『まあ、何とかするさ。』
 出掛けにそんな曖昧な言いようをしていた蛭魔であったのは、
「転送の咒でな。」
 何だか曰くのありげな品物だったのでと、アクア・クリスタルではないが、オーブ状態になるよう圧縮をかけて封印し、旅の扉にての旅でこの近くまでは運んで来た上で、あとの少しを物体移送の咒にて此処へまで送っておいたらしい…のだが。
「よくもまあ、正体不明の準危険物へ、そんな咒なんてかけやがったな。」
 本来の持ち主の連中でさえ、わざわざお運びの上で持ってこうとした代物だぞと葉柱が呆れれば、
「これ自体には何の残留思念も染みついちゃいなかったからな。」
 それに、恐らくは催眠効果のある咒を詰めた封管を間近で開けられても反応・変化はなかったらしいから…というのも理由ではあったが、こっちの説明はセナの手前、端折った蛭魔だったりし、
「乱暴な奴だよな、相変わらず。」
「うっせぇなっ。異常はなかったんだから問題はねぇだろが。」
 扱いに手をこまねくだろうなんて安心し切ってやがるんだろう、向こうの思惑に乗ってやる気は端(はな)からねぇんだよ…なんて。ちょいと危ない発言をも付け足してから、
「それでなくとも自分には馴染みの深い土地だ、勝手は知ってる。」
 だから、間違いなんて起きようかと胸を張る蛭魔であり。
「それよか、無事に下山出来たんだから、お前はもうお役御免だ。カメを連れてお里へ帰れ。」
「何でお前に指図されにゃあならんのだ、俺の勝手だろうが。」
 ぎんっと双方鋭い目付きで睨み合っての、何だか喧嘩腰になっての言い争いが始まってしまって、
「いち早くお城に帰ったみたいな光景だね、こりゃ。」
「あやや…。////////
 そりゃあまあ、そうなんですがと、桜庭の呑気な見解へセナが小さな肩をすぼめてしまう。蛭魔がついつい罵倒ついでに口にしたように、あのアケメネイの隠れ里からの出入りは、今のところはスノウ・ハミングのカメちゃんの手助けがないと不可能であり、それでとついて来た感のある葉柱だが。そうではないことくらい、実は蛭魔だって了承済みなくせにねと、コロコロ楽しげに笑っている桜庭なのは今更な話。
「あの人、凄いんだねぇ。」
 蛭魔と口喧嘩しちゃうだなんて、しかも何だか慣れてるみたいだし、と。クリタが意外そうな言いようをしたのが、セナには意外。まあまあといなす桜庭とはカラーが違うが、それでも…この蛭魔へ対等な口利きをする存在というのは彼にも目新しいのか。だとすれば、
“蛭魔さんて、どこに居てもああいう人なんだな。”
 自分のカラーは絶対崩さず、郷に入っては郷を従わすような人。………無敵ですな、そりゃ。
(苦笑) 喧嘩と言ったって本腰の入った腐し合いというほどのものでもなく、
「おお、懐かしい賑やかさだな。」
 そんな声と共に現れた人物の存在で、あっさりと双方の注意が逸れて幕が下りてしまったところも、お城から来た組には相変わらずの流れでありはして。所詮はレクリエーションもどきの代物、そうと判っているからこそ、桜庭も気に留めなかったしクリタも微笑ましげな表情でいたのだろう。そして、新たに入って来た人物も、
「お前の強引な物言いに引き下がらないお人ってのは、桜庭以外で初めて見るが。」
 喉を震わせ、くつくつと笑ったのは、なかなか重厚な落ち着きに満ちた男性で。短く刈られた黒い髪に、性分が雑なのか無精髭の目立つ面差しは、頬骨が立っていてなかなかに精悍。だが、そんなものよりも真っ先に目につくのが、まだまだ肌寒い気候だというのに、上半身は薄い袖なしシャツ1枚という軽装なのがとんでもない彼であり、
「…あの。」
 寒くはないのだろうかと、おずおず声をかけたセナに気づくと、
「おや。これはまた小さな客人だな。」
 新しい修行生か? 微妙に外したことを言う彼へ、クリタが違うってばと笑い、お前、相変わらず空気読めねぇ奴だよなと蛭魔が突っ込む呼吸が、何とも絶妙で。
“ああ、この人たちは…。”
 彼らは長いこと逢わなくともつながってる人たちなんだなとセナに思わせた。家族、友達、仲間。意識せずとも相手のこと、癖や気性なんかを肌合いでいつまでも覚えていられる人たち。再会したその途端に、互いが不在だったブランクがあっさりと埋まる、そんな絆を互いに持つ人たち。
「こちらはセナくん。ほら、伝信で話してたでしょう? それとそちらが葉柱くん。」
 桜庭が腕を伸べてそれぞれを紹介し、
「あ、あのあのっ。」
 ご挨拶をと勢いよく立ち上がったセナへ、
「ほぉ、この子が公主さんか。」
 傍らまで運んでいた男性が、いかにも気安く、セナの髪をぽふぽふとその大きな手のひらで撫でてやるあたり。ざっかけないというか、畏れを知らないというか。
“そんな気性ってのは、この庵房ではデフォルトなんだろか?”
 自分だってまるきり物恐じしない登場の仕方をしていた葉柱が、ついつい呆れ半分に胸の裡
うちにて呟いてしまったが。(苦笑) まあ、邪妖相手の妖魔封印という、意気地の強かさも必要な実戦までこなそうってランクの導師様なら、自信に連なる気概の一端としてそういう居丈高さも身につけてた方がいいのかもですが。何だか随分と小さい子供扱いをされて、どうしたもんかとご挨拶に困ってるセナへは、
「セナくん、葉柱くん。彼はムサシといってね。此処で修行生たちの体力強化を担当している講師さんなんだよ?」
 桜庭さんがこちらへの紹介を続ける。咒を扱う身には、体の鍛練も必要なのはセナも重々知っている。その体内へ常態以上の量や質の気脈を取り込み、練ったり捏ねたり螺旋にねじったりとするのは、精神的な部分へだけでなく肉体へもただならぬ負荷をかけることだから。大きな咒に関わる者ほど、取り込んだり念じて蓄えた咒の力を暴走させぬよう、そして当人が消耗せぬようにと、殻器である肉体の方も屈強なそれへと鍛えておかねばならない。
「だからってのも順番が妙だが、このジジィは咒は全く使えねぇんだ。」
 セナをお子様扱いしているのはそんなせいだ、勘弁してやれということか。ちょっぴり棘のありそな言いようをくっつけた蛭魔だったが、言われた本人は涼しいお顔のまんまであり、
「使えなくとも判ることはある。」
「ほほぉ?」
 少し逢わねぇうちに偉くなったもんだな。何だそりゃ。やっぱり喧嘩腰に持ってく蛭魔さんだようと、セナがついつい びくくっと身を竦めたところへ、
「お前が此処へ戻ってもそうまでピリピリしてやがんのは、この子が普通の子供じゃあないからだろ? 護ると決めた特別な対象ってトコか?」
「………まあな。」
 おや。当たっていたところでとぼけきるのも得手な彼だのに、今度は言い返さないその上に、そのまま ふっと一気に、蛭魔の気勢が下がったような。それを読んでのことだろう、
「ややこしいようで、結局は分かりやすい奴なんだよ、お前。」
「うっせぇなっ。」
 どこか腹立ち紛れな、投げるような言い返しようをした蛭魔へ、

  「俺らが素人に毛の生えたような存在で頼りにならんからか、
   それとも…側杖喰わせて迷惑かけたくねぇとでも思ってやがるんなら、
   舐めてもらっちゃあ困る。」

 全く怯むことなく、むしろ優勢なままに言ってのけたムサシさんとは、元からこういう相性なのか、
「実戦経験は皆無に等しいくせに。」
「だが、お前らの呼吸は読める。」
 どうしてほしいか、逃げるのか加勢するのか、臨機応変で応じることくらいは出来んだぜ?
「術を使えない者を、だからって舐めるんじゃない。第一、お前、咒を使っても俺を蹴倒せたことは一遍だってなかったろうがよ。」
「そりゃ修行中の話だろうが。」
 今なら軽いぜ。当たり前だ、そうでなきゃ師範が仕事負わせて外へ出すかい…と、何だかムサシさんの方が断然優勢なやり取りになっているのが、
「ふわわ…。」
 セナにはちょっと感動だったりし。そんな彼へと桜庭がこそっと囁いた。
「凄いでしょ?」
 あのヨウイチが手玉に取られてんだもの。しかも、もう子供じゃないのに今だにだよ?
「はい。」
 こくこくと素直に頷く王子様へ、
「武道だって極めれば、体だけのことじゃなくなる。精神論とまでは行かなくたって、心の機微とか人の思惑、究極の“相手しか知り得ない持ち物”のそういうのだって、深く洞察したり理解出来たりするようにもなる。」
 そうと付け足した桜庭で。
「進だってそうだった筈だ。」
「…あ。」
 きっとね、君が望むならその身を軽んじたりせず生きているはずだし、敵の手中にありながらも、じっと待っててくれているのかもしれない。
「セナくんが泣いたり困ったりするのが、一番堪える人だったでしょ?」
「はい。」
 優しかった彼
の人を思い、ほうと息をついたその気配がよほどに甘かったからだろか。懐ろに抱えられてたオオトカゲのカメちゃんが、きゅうう?と首をねじ曲げて、ご主人様を見上げて来ていたほどだった。






            ◇



 預けたものを引き取りに来たついで、性急に戻るのではなく此処での一休みと構えた彼らだったのは、何も故郷へ戻ったからと気が緩んでのことではなくて、
『アケメネイの聖なる気配を辿られちゃあ不味かろう。』
 相手は既に奇襲をかけていたらしいから、何もあの隠れ里の場所が割れることを恐れている訳ではなく。そこから帰還する自分たちの気配を悟られたくはないからと、少しでも特殊な気配は、落とすなり下界の雑多さに馴染ませるなりした方がよかろうと構えてのこと。そして、そんな彼らに葉柱が同行しているのは、さっき取り上げた、里への出入りの鍵となるカメちゃんの存在の関係…というよりも、
『この事態の顛末、見届けたいと思います。』
 永らくの安寧を蹴破っての嵐に揉まれ、族長の跡取りである兄が重傷を負ってもいるが。それでも揺るがぬ里の人々の気骨を前提に、怪しき一党の企みを見届け、且つ、その標的にされし我らが“光の公主”様の助けになればと、父上へ申し出てのこと。頼もしい人がまだ仲間でいて下さるというこの宣言は、セナ王子に安堵の表情を齎し、そして、
「ヨウイチに格好の口喧嘩仲間を当てがっちゃった訳だけど。」
「…桜庭さんたら。」
 その蛭魔さんが、彼へと向けてあんなことを言った、その執り成しもせぬまま放っておいているものだから。それでまだご機嫌斜めなのかしらと、ちょっぴり困ったような笑い方をするセナだったのはともかく。

  『普通の夫婦だった。』

 桜庭もまた少々テンションが妙だったのは、実は隠していることがあったから。あのアケメネイの里は、蛭魔が生まれた里でもあって。黒い髪の一族の中に、それはそれは霊力の高い、金の髪をした子供が生まれいで。これはもしかして、月の子供を光の公主様へと導く“金のカナリア”ではなかろうかと、千年に一度もなかろう奇跡の吉兆と見なしたその上で、此処、泥門の里へまで、素性を隠したままにて降ろしたそうなのだけれども。ということは、彼を生んだ双親もあの里にはいる筈で。特別な存在なのだからと、親子の縁も切られての仕儀。しかも20年近くも経ってもいることだから、こっちもそうだが向こうだって、相手の顔さえ覚えてはいないもの。そんな事実があったって程度の記憶しかなかろうよなと、淡々とした想いでいた蛭魔だったところへ、
『これをくれた夫婦ものがいてな。』
 いつもつけているものなので、違いにまで気がついた者はいなかった、白い耳朶に光るリングピアス。よくよく見ると、プラチナの上へどういう細工か水晶がコーティングされてあり、
『尊いお方を守りしお勤め、どうか忌憚なくお務め下さいませってよ。』
 言われるまでもねぇと、いつもの調子で居丈高に言い返せなかったのは、相手が既にどこか萎縮していたからではなくて。その二人から何かしら、感じ取れるものがあったから。それなりの年齢ながら、まだ十分に若々しい奥方の方がおずおずそろりと伸ばして来た手で頬に触れられても、払うことも出来ぬままでいた彼だったそうであり。
『…年いった女の人の手ってのは、思った以上に温っけぇのな。』
 あんな寒い土地の人間だからかな。単なる報告、何とかキリのいいところで話を終えたいのに、取り留めのない会話は尻切れトンボになるばかり。そんな彼の頭の後ろへと手を回し、やや強引に引き寄せて。
『もういい。妖一。』
 場や空気を繕うなんてしなくていいから。僕にはそういうの要らないからと、懐ろに掻い込んだ愛しい子。今はもう落ち着いていて、そんなことがあっただなんて自分以外に知る者もなく。そういうところもまた頼もしい彼だけれど、同時に…何でだろうか、胸の底にちくちくと引っ掛かっているものも少々。

  「それにしても、噂には聞いてたが大した庵房だよな。」
  「はい?」

 少し離れた窓辺では、そこから中庭が見えるから。久々に稽古をつけてやろうと連れ出された蛭魔の珍しい格闘演舞を眺めつつ葉柱がそんなことをぽつりと口にしており。
「さっきの体術担当の師範っての、蛭魔が世話になったって話していたろうが。」
「はい。」
「しかも、俺が親父に似てないとも言ってたろうが。」
 紹介の途中だった葉柱の名に反応したムサシさん。彼の顔を見、そんな一言をこぼしており、
「ってことは、だ。蛭魔を此処へ預けに来た俺の親父の顔を見ていることになる。」
「そうですね。」
 外界からの人の出入りを禁じている隠れ里。そこから送り出されし赤子の蛭魔だったということだが、まさか自力では出てゆけまいから、大人が連れ出したはずであり、その任を担ったのが葉柱の父上の族長様だったらしいのだが、

  「一見して、幾つくらいだと思ったよ。」
  「………あ。」

 幼いころからの蛭魔を知っていそうな口ぶりだったが、此処へ来たときからだとなると、少なくとも17、8年はお付き合いがある身だということになり、
「師範を務め始めたのがずんと若かった…とは思えない。咒を使える相手への教えを授けようってんだ、普通に格闘を修めてるだけじゃあ務まらないからな。」
 自分はからっきしでも一応の知識は身につけねば、人に教えるなんて到底無理な話。居合いなどにも通じる、格闘用の集中法だのを伝授したに違いなく。
「だとして…お幾つなんでしょうね?」
「だろ?」
 窓の外では、蛭魔の痩躯から繰り出される鋭い攻勢に全く引けを取らない動きで応じている師範様が、それは鮮やかにして切れもある…手刀と回し蹴りと踵落としのコンポを見せたところ。桜庭が年を取らない身なのにあの蛭魔がなかなか気がつかなかったのも、こういう環境だったせいじゃねぇのかねと、少々聞き捨てならない話題が何となく聞こえて来てはいたが、

  “…そだよねぇ。僕のかけた暗示のせいだけじゃなかったのかもだね。”

 天涯孤独でありながらも、この里にて多くの人々から見守られて育った君。本人も気概の雄々しい子だったから、別に世を拗ねてなんかいなかっただろうけれど…それでも、あのね? 双親のない身なの、一度でも寂しいと思わないでいられたんだろうかと、今回、ふと思った桜庭でもあったらしくて。あまりに遠い過去からの置き土産に、何でまた妖一さんといいセナといい、翻弄されなきゃならないのだろうかなんて。選りにも選って、一番最初にまで戻ったところでの憤慨を、その胸の底に転がしていると、外からのワッという歓声が洩れ聞こえた。何事だろうか、まさか妖一が怪我でもしたかと、長椅子から立ち上がって窓辺まで慌てて駆けつけてみれば。
「凄い凄い、蛭魔さん。」
「怖いものなしだな、あいつ。」
 ずんと体格差のある相手の背後へと回り込み、その腕を羽交い締めにしての“ギブアップ勝利”を奪い取って、そりゃあ喜色満面でおいでの金髪の悪魔さんへ、現在只今修行中らしき子供らや門弟さんたちがドッと沸いた声だったようで。

  「………そだね。心配は要らないか。」

 蛭魔もそしてセナも、ただただ宿命とやらに流されてはいない。そんな弱い子ではない。巡り来るのが避けられなくとも、それならそれで絶対に、屈して逃げたりなんかしてやるもんかと、顔を背けず一途に頑張る子らではないか。頼りない幼子だったのでと周囲が見過ごせずにいたのではなく、そんな君だから引き寄せられたようなものなのかもで。
“僕もしっかりしなくちゃね。”
 えも言われぬ不安からだろか、当人も気づかぬうち、形の無い何かへ苛立ちかかっていた桜庭も、これでどうやら人心地つけた模様。

  「桜庭〜、お前も挑戦してみな。ジジィめ、腕が落ちてやがんぞ。」
  「こらこら、お弟子さんたちが見てるってのに。」

 明るい声のさんざめく和やかさに、セナ王子も懐に抱えたカメちゃんと一緒にクスクスと軽やかに笑っており。今だけは苛酷な現実にもちょっとだけ待っててもらっての生気の補充。予断を許さぬ状況へと飛び込むための思い切りの深呼吸をし、おのおのがそれぞれに、失くしたくはない“笑顔”というもの、思う存分堪能していたのでもありました。








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  *さあさ、そろそろ折り返しです。(え?)
   夏までには何とか終わらせないと、シャレにならんかも…。

  *そういう割に、こんなのっけで一休みしている皆様だったりし。
(苦笑)
   どうしたもんかと迷ってたんですが、泥門の皆様も書いておきたくなりまして。
   老け顔の武蔵さんのみならず、
   栗田さんだって、あのまま何年も変わってないんじゃなかろうかと思われ、
   物凄く年齢不詳の方々の集まりだった訳ですね、つまりは。
(笑)